チャンスのもたらす利益はチャンスを受け取る人の恐怖心によって制限される

Twitter上での思考過程を記録しておく

神様が現れて「金額を宣言してコインを投げろ。表が出たらその金額の10倍をやるが、裏が出たらその金額を徴収する」と言われたとしたらどうするのが正しいのか。

なおコインは歪みがなくコントロールも不可能な、1/2の確率で表が出るもので、試行は1回のみとする。

ある程度確率計算の分かる人なら「たくさん賭ければその分リターンの期待値も高い」ということまではわかるのだろうけど、それでも10万円賭けるのに抵抗を感じる人もいれば、100万円平気で賭ける人もいるだろう。その違いはなんなのか?チャンスそのものには違いはない。

つまり同じチャンスが与えられても人によってそこから得られるメリットの期待値は異なる。失敗に対する恐怖心の多寡、挑戦できる余裕、リスク許容度、と表現は色いろあるだろうけど、得られるメリットを制限するものはチャンスを受け取る人の心の中にある。

漫画「銀と金」に「金はそれを持つ度量がなければ持つことができない」という趣旨のセリフがあったが、まさにそういう事なんだろうなぁ。チャンスがあっても、それをチャンスだと見てとるにはリスクに対する耐性という度量が必要なんだ。それがなければ同じものを見ても「リスクのある怖いもの」にしか見えない。


と、ここまで考えて「自分のリスク許容度によってチャンスから得られる期待値が変わる」という結論よりも面白い結論が導ける可能性に気づいたので問題を少し修正してみた。

神様が現れて『金額を宣言してコインを投げろ。表ならその金額の101倍をやるが裏ならその金額を徴収する』と言われたとする。神はイカサマをせず、チャンスは1回だけ、神とそういう契約が交わされたことは第三者に容易に証明できるものとする。どうするのがよいか?

重要なのは「チャンスを手にしていることを証明する能力」が明示された点。普通は「神様が現れて〜」なんてことを第三者に話しても信用してもらえないんだけど、それを信用してもらえると仮定した。

よい解決方法と、その解決方法を使っている人は世の中にどっさりいるんだということに気づいた。

先程の例では同じ博打でも個人のリスク許容度によって得られる期待値が変わるという話だったが、その博打自体の期待値を他人に納得させられるのであれば別の使い方ができる。つまり博打をリスク許容度の高い人へと移行するんだ。

ちなみにぼくの回答は「二分の一の確率で投資額が五十倍になる博打をやらないか?とベンチャーキャピタルに営業して集まった金額の半分だけを賭ける」コインがどうなっても集めた額の半分は僕のものだし、出資が集まり始めれば営業担当やコイン振り担当を雇うこともできる。

世の中のベンチャーベンチャーキャピタルがやっているのはまさにこういうことだよね。「失敗する可能性もあるが成功したら儲かるビジネス」に、十中八九潰れるのは承知の上で投資しするわけだし、ベンチャーの側もここまで露骨なリスク回避ではないものの「全額自分で借金したのでは許容しきれないリスクを、VCから出資してもらうことで軽減する」という意味では同じ。

「この解決方法を使っている人は世の中にどっさりいる」と発言したときに想定していたのは「株式の発行」なのだけど、これもリスクの移転という点では同じ。最終的な解答が株式発行の形を取らなかったのは、議決権の影響を取り除いたり上場して不特定多数からお金を集めるための労力を考えると、お金とリスク許容度のあるところに直接売り込みに行くほうが楽だと判断したから。