「フロイトを超えて」レバレッジメモ

エーリッヒ・フロムによるフロイトの偉大さとその限界についての解説。「第1章 科学的知識の限界 1節 すべての新しい理論が必ず欠陥を持つのはなぜか」 というところから話が始まるのが面白い。

創造的思想は常に既存の幻想を取り除く「批判的思想」だが、それをその時代の思想・常識・論理体系で表現し考えなければいけない。それが固定観念となって理論の正しい発展を阻害する。フロイトの場合はその固定観念が2つある。1つめは唯物論だ。当時『力と質料』(ビュヒナー)などで語られ広く受け入れられていた。ビュヒナーの主張は「質料のない力はない」であり、フロイトはこれに影響されて「特定の生理的根源を明示できないような強い心的な力は存在し得ない」と考えるようになった。当時の科学水準でわかる「生理的根源が明らかな欲求」は、要するに「性欲」であり、それがすべての根幹であるという理論になってしまった。2つめは家父長制だ。フロイトは大いに尊敬してたジョン・ステュアート・ミルが男女平等について述べたときに「まったく狂気の沙汰だ」と書くほど、男が女を支配することは当たり前だと考えていた。これが男性性と権力を強く結びつけ、家庭内の権力(父親)に対する反発として「エディプス・コンプレックス」などの概念が出るきっかけになった。

フロイトが行った、当時としては革新的だった概念はいくつかある。全部を書くのは大変なのでここでは(*)をつけたものについてだけまとめる。

  • 無意識の発見(意識していることがすべてではない)
  • 転移(医師に対して患者が、子供時代に親に対して持っていたのと同じ感情を持つようになる現象)
  • ナルシシズム(性的倒錯ではなく、自己保存の本能の一つの補完物)
  • (*)性格の分類
  • 子供時代の意義(今の自分を作る上で子供時代の経験が影響している、という考え)
  • (*)夢の解釈
  • (*)本能理論

まず性格構造についてフロイトの興味深い点は性格を個別の特性ではなくシステムとして分類しようとしたことだ。それは口唇愛=受容、口唇愛=サディズム、肛門愛=サディズム、性器愛、の4つ。で、これ要するに「欲するものは与えられる」「欲するものは奪わないといけない」「奪われないように守らないといけない」「それらを超越した大人」という発達段階だ。これらの性格がすべて性欲由来であると仮定して理論を構成するのは、仮説が強すぎて不必要にモデルが複雑になってるのではないか?これがフロムの主張。先住民族の文化などの研究から、たとえば貧しくて奪い合わなければ生き残れない部族では攻撃的性格が発達する傾向にあるし、逆に豊かで奪う必要がない環境では協力的な性格が発達する傾向にある、という例を上げて、環境が及ぼす影響も大きいのではないかと主張している。

次に夢診断に関してのフロムの意見は、自己矛盾はないので「作業仮説としてはアリ」とのこと。「多くの夢が願望の象徴的充足」が事実であったとしても、これをフロイトが「すべての夢が〜」としてしまったことは独断的だと感じている。

本能理論、特に「死の本能」に関しては、そもそもフロイトは二元論の立場に立っていて、生命とは相反する二つの力の戦いだと捉えていた。当初この二元論で戦っていたのは「性」と「自己保存」だったのだが、その後「ナルシシズム」の概念を導入したことで、自己保存の本能は性(リビドー)の一種になってしまった。これだと自分が異端だとして戦っていたユングの「リビドーがすべての精神エネルギーを表す」を肯定することになってしまう。そこで導入されたのが「死の本能」だ。

などなど、今となっては問題点も目立つフロイトの理論だが、当時曖昧模糊としていた「精神」に対して「科学的アプローチ」を取ろうと奮戦したことは評価できる。無意識の概念を提唱したのが1895年だから、ライト兄弟が有人飛行に成功してない時代だ。現代では計測技術が発達して脳内の活動を観察できるようになったけど、ここから35年くらいたった1929年にようやく人間に脳波があることが確認されたんだ。フロイトが今の時代にいたらデータの豊富さに狂喜乱舞したんじゃなかろうか。