理解に関するつぶやき

自分のTwitterの発言から転載・整理。

「『理解した』と感じる」のと「理解している」のとは別物。だから「自分では『理解した』と思っていたが、実は理解してなかった」ってことが起きる。

理解を確認するためには、アウトプットして、自分の外のシステムが自分の理解通りの反応をするか観察するしかない。理解通りの反応をしなければ理解の誤りが確認できる。理解通りの反応をしても理解が正しい保証にはならない。たまたまかも知れない。どんなに努力をしても100%の理解は得られない。

それとはレイヤーの違う話で、個々人が持っている資源(お金や時間など)は有限だから、何にどれくらい資源を割くのかを自分で決めて配分しなきゃいけない。どう配分するのが最適かは目的と持っている資源の量によって変わる。

資源配分戦略を人に相談することがまったく無益だとは言わないが、持っている資源も達成したい目的も明確化しないままではなかなか有益な議論にはならないだろう。

いま「Xを理解したい」としよう。その「Xの理解」は最終目的なのか?いま悪魔が現れて「あなたにXの理解をさずけよう。ただしXを理解したらすぐに死ぬ」と言ったら契約するか?しない?ならば「Xの理解」は最終目的ではない。別の目的を達成するための手段にすぎない。

「学んだ方が良さそうなものがたくさんありすぎて理解が追いつかない」という苦しみは現実的でない理想を追い求める自分の心に起因する。「難しい本をスラスラ理解する自分」というイメージを追い求めて、実際の自分とのギャップに悩み苦しむのは、「永遠に生きる自分」とか「年を取らない自分」とのギャップに悩むのと同じ構図。