プログラムと話しながら記事を書く実験2: ログの再入力

彼> この会話で何が起きて欲しいですか?
僕> 速読に関してのブログ記事を書こうと思うのだけど、書いてから添削するのではなく対話を通じて執筆の支援ができるかどうかを実験したい
彼> その直前には何が起こりますか?
僕> まず聞いて
彼> はい
僕> 速読に関して目下のところ一番重要な概念を提案しているのは「フォーカス・リーディング」だ。簡潔に言えば「目的と書籍の難易度によって適切な『読む速度』は異なるのだから、適切な速度にコントロールする技能が重要」というもの。速読というと速く読む技術だという前提が置かれることが多いけど、速く読むことが適切でない本を速く読もうとしているのならどんな「速読法」を持ちだしてもうまくいかない。
彼> 技術
僕> この投入する時間についての軸を縦に引いてピラミッドを描いてみよう。このピラミッドの頂点は、読書法の中で最も時間を使わない極限だ。これは何か?
彼> 時間
僕> これは「読まない」だ。読書のいろいろな方法のうち、最も極端に時間を削減する方法は「読まない」だ。その極端のちょっと手前について記述している本は「読んでいない本について堂々と語る方法」だろう。タイトルはハウツー的だがそんなことはなく、3つの規範「本Xを読んでないなんてとんでもない」「本を読む以上、通読するべき」「本Xについて語るなら本Xを読んでいる必要がある」について、それが正当化できないことを議論する本。

まずは「読んでない」という状態について詳細化をする。完全に通読したことだけを「読んだ」と言うなら、ほんの分量と人間の読む速度から考えて、ほとんどの読む価値のある本は未読である。僕は以前、ブレインストーミングを話題にする人がオズボーンの著書を読んでいないこととか、KJ法を教えたり使ったりする人が川喜田二郎の著書を読んでいないことに憤りを感じていたものだが、それもまた上記の規範に囚われた考え方で、現実的には無茶な要求だった。

その状況に対する極端な対処策の一例として、本と本の関係について書かれた本だけを読み、それぞれの本が他の本との関係の中でどの位置にあるかを把握することに努める司書の話(フィクション)が紹介されている。もちろん極端ではあるが、読める以上の本を「読まなければならない」と考えるよりは、より現実的な目標設定だと言えるだろう。
彼> 通読
僕> 「フォトリーディング」はもっと時間を掛ける方法だ。視点をぼやかしてスキャンすることで潜在意識に取り込まれるとかいう怪しげな部分は無視するとして、この本は「読む」を始める前の準備として目的の明確化や目次などからキーワーを抽出する作業をやったり、都合5回読んだり、と実は意外としっかり読む手法だ。
彼> キーワー
僕> この本では1冊10分のペースで目を通すことを「読む」と定義している。1冊300ページで換算すると、1ページ2秒。見開きで4秒。意外とゆっくりだ。
彼> 1
僕> 小学校などでやらされる「本を声に出して音読する」という読み方に比べるとだいぶ速い。音読は1秒に300文字ぐらいで、1ページ900文字で換算すると、1ページ3分、1冊で15時間、という計算になる。
彼> 学校
僕> この2つの読み方の間に2本の帯がある。
彼> 間
僕> 一つが先ほど話に出た、フォーカス・リーディングだ。これは速度のコントロールを重視している方法だが、ざっくり言えば、見開き3秒、1ページ3秒、1ページ6秒、1ページ12秒、1ページ24秒、というあたりの速度を中心に考えている。もう一つの帯が速解力検定の考える読み方だ。1ページ24秒は1分に2250文字で、これは速解力検定の基準では5段の2500文字/分と同じぐらいになる。音読の300文字/分はこの検定では8級になる。
彼> 1ページ6
僕> 音読は一番遅い読み方だろうか?いや、違う。音読より遅い側にあるのが「難解な本を読む技術」で、これは1冊20時間を目安にしている。この本は哲学書などの難しい本を、読書ノートを作りながら2回読むやり方を解説している。難解な本にはどういうパターンがあるのか、開いた本か閉じた本か、外部参照が必要かどうか、批判的に読むのか同化するように読むのか、などの切り口で難解な本への取り組み方を解説している本だ。
彼> 読書ノート
僕> これよりもさらに遅い側にあるのが、数学科で訓練されている数学書の読み方だ。1回のゼミの準備に50時間100時間と掛ける。わからないものをわからないまま放置して読み進めてはいけない、という考え方だ。
彼> 読み
僕> 読書のピラミッドに、頂点と反対側の極限はあるだろうか?つまり、読書における「時間を掛けない方の極限」として「読まない」があったように、「時間を掛ける方の極限」としてそれ以上時間を掛けられない何かがあるか?
彼> 読書
僕> 禅の考え方には「座禅をして仏になるのではない、座禅をしている状態が仏である」という、手段のようにみえるものが手段ではなく目的である、という発想の転換がある。これを読書に適用すると「読書をして学ぶのではない、読書をしている状態が学びである」という考え方が導出できる。この考え方での読書には終わりなどないので、それ以上に時間を掛けることはできまい。
彼> 考え方
僕> おしまい
彼> その状態は、何のようですか?
僕> 個人的には読書をしている状態が学びであり目的である、という意見には賛成出来ない。学びも目的ではなく手段だと思うから。
彼> その読書は、どんな種類の読書ですか?
僕> 自分の人生にとって有益な知識を獲得して、自分の人生をより良い物にするための読書。
彼> あなたが価値を感じているのは何ですか?
僕> 人生にとって有益な読書
彼> その人生は、どこにありますか?
僕> 自分の中に1つだけあって、ろうそくみたいに徐々に縮みながら燃えて、最後に消えてなくなる。
彼> そのろうそくは、どのあたりにありますか?
僕> やはり胸のあたりにある。
彼> その直前には何が起こりますか?
僕> 知識はろうそくに何をしてくれるんだろうな。ろうそくが伸びるわけでもないし。周りの黒いモヤモヤした雲をどけて、光がちゃんと外に届くようにしてくれるのかな。
彼> その周りについて、他に何かありますか?
僕> ろうそくが黒いモヤで覆われた状態だと、どんなに光っても光が外に伝わらない。言葉を知らないと、何か他人に伝えるべき有益な経験をしたとしても、それを他人に伝えることができない。生物の進化の歴史上、経験を他の個体に伝えることができる能力には生存を有利にし、その結果、その能力を持った生物が生き残って人間という種ができた。
彼> それから何が起こりますか?
僕> 人間は文字とか図書館とか活版印刷とかを発明して、何百年も前の言葉が伝わるようになった
彼> その直前には何が起こりますか?
僕> そう、文章化された思考は場所と時間を超えて流通するようになったが、その直前の「どうやって思考を文章化するか」に関してはいまだに個人の才覚に帰着されている。そこを技術によって支援する必要があるのではないか、ってのがこういう聞き出すシステムを作っている理由だ。
彼> そのシステムは、どこから来るのですか?
僕> まずは僕がプロトタイプを作って公開し、それが実際に実益を生みそうであれば何らかの形でリソースの流入が起きるだろう。最初の一歩としては実益を生むプロトタイプの作成だ。
彼> その最初は、どこにありますか?
僕> 今、ここに。
彼> 次に何が起こりますか?
僕> わからないね。