ネガティブコメント

id:coji経由。これはいいエントリー。

  • 判断基準を示さずに「お前はバカだ」といわれてもそれはノイズなので真剣に反応する必要はない
  • 判断基準を示して「お前はバカだ」と言われた場合、それはブログを書かなければ気づかなかったであろう「自分の勘違い」に気づかせてくれる貴重なコメントかも知れない。多少言葉遣いが悪い程度で捨てるのは惜しい。相手の示した判断基準についてよく考察する必要がある。

ここまでが元記事の僕なりの要約。以下は僕が思ったこと。

この記事くらいに思っていた方が精神衛生上はいいと思う。ただ、人間は自己正当化しやすい生き物なので、「自分が悪いかも」という側に倒したほうがバランスが取れるのかも。
例えば放火されたとして、もちろん放火犯が悪いのだけども、火が付きやすい新聞紙を軒下に放置した自分にも落ち度はあったのではないか。例えばひったくりにあったとして、もちろんひったくり犯が悪いのだけど、ハンドバッグを自転車の前かごに入れていた自分にも落ち度はあるんじゃないかと、そういう考え方。ブログにノイズコメントがたくさん付いたなら付いたで、ノイズをおびき寄せるような文章が自分のエントリの中にあったのではないかと考える。もちろん、ノイズがあっても平気とか、逆に集客効果があると考えるのであれば対策する必要はないけど、そうでないなら自分の文章を炎上しにくい形にすることもできる。

これは後者の場合にも顕著で、例えば自分の書いた文章に「どこをどう読んだらそう解釈できるんだ」というコメントが付いた場合に、解釈を間違えた相手に落ち度があると考えることもできるし、解釈を間違えるような文章を書いた自分に落ち度があると考えることもできる。前者で「○○さん、小学校に戻って国語の勉強をやり直してはいかがですか?」とか「○○さんはxのことをyだと定義して反論しているがそれは間違い」とかいうと、まぁまちがいなく相手はさらに反論してきて泥沼化する。後者で「○○さん、誤解を招くような書き方をしてすみません。私のエントリーではxという言葉をzという意味で使っていました。なので○○さんの懸念されているような問題は起こらないかと思います。」とすれば事は穏便に済む。

人間が真に理性的な存在なら、ノイズは無視してもいいと思う。ただ、実際はかなり感情に影響される生き物なので、ノイズからも「こういうことを言うと多くの人間が感情的になるのか…」ということを学ぶことができる。そしてその知識は無用なコストの削減につながる。僕は少なくともそう思う。

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追記:この議論は、僕が高校生の時に同級生が「バカにバカっていって何が悪い」と言い出して、それに対して「バカって言ったらたとえそれが真実であったとしても相手は怒るわけなので、そういう無用の争いごとを起こすことこそバカなのでは?」と思ったところに源流があるのかも知れない。