感性と理論に関するつぶやき

Twitterから転載。6/17~18。続き物のTweetなのに部分的にfavっている人がたくさんいるからまとめておかないともったいない気がした。

@sijyo_no_oteire なぜ理論や方法論より感性が先なのか。それは感性がいつどんな理論や方法論を使うべきかを識別できなければ、いくら理論や方法論をもってても結局使うタイミングがつかめず宝の持ち腐れだから。レシピを知ってても味音痴ならだめ。さらにレシピのように料理ごとに方法が用意されてるわけでもなし

理論や方法論を感性に基づいてチョイスしている時点で台無しじゃないか

僕にとって「感性」は教えることも学ぶことも積み上げることも出来ないものであり、「理論」は教え学び積み上げることが可能なもの。猿とバナナに例えるなら感性はジャンプ力で理論は踏み台の箱。積み上げた上から跳ぶのであって、跳んでから積むのではない。

まだ誰もやったことのないことをしたい、つまりまだ取られていないバナナを取りたいのなら、箱を積まずにジャンプしても無駄だ。過去何千年、数えきれない数の猿がそれをしたから、もうそんな方法で届く所にバナナはない。

もちろん、どちらかの意見が正しいというわけではなく、感性や理論って言葉は明確には定義されていないということだ。そして僕の「感性は積み上げることが出来ない」という定義に同意するならば、そこから「理論より感性を重視するスタンスは新しいものを生まない」という結論が導出されるのではないか?



@tcsh 経験に基づく見識、と置き換えてみるとか RT @nishio: 理論や方法論を感性に基づいてチョイスしている時点で台無しじゃないか

たしかに、僕は「感性」は人に伝えることが出来なくてかつ積み上げることが出来ないもの、「理論」は人に伝えることが出来てかつ積み上げることも出来るもの、と定義したけども、世の中にはこの二つ以外のものも存在する。「言語化されていない経験知」だ。例えば自転車の乗り方を覚えたとして、これは言葉によって他人に伝えられるわけでも言葉で伝えてもらっただけで自転車に乗れるようになるわけでもない。そして自転車に乗れなければ多分バイクや曲芸自転車に乗ることは出来ない。つまり、人に伝えることが出来ず、積み上げられる。

僕の定義ではこういう「言語化されていない経験知」は「感性でも理論でもない」という分類になるが、「言語化されていない経験知」を「感性」と呼んで、僕が感性と呼んだようなものを「センス」と呼ぶ、って定義も可能だ。



@Nikoriks 手下猿にバナナを取らせる方法を発明したのがエジソンじゃなかったかな @nishio もうそんな方法で届く所にバナナはない。

確かに「自分一人でバナナを取らなければいけない」というのは思い込みにすぎない。ドラッカーも「19世紀における技術史上の最大の偉業は発明の発明。天才のヒラメキによる発明から、体系的な開発研究部隊による発明へ。」(イノベーションと企業家精神 (ドラッカー名著集))と言っているし、組織として活動した方が自分一人で活動するよりもバナナに到達しやすくなるという可能性を忘れてはいけない。すっかり忘れていた。僕にはやっぱり組織の視点が不足しているなぁ。