Re: 「「勉強会の違和感」に感じる違和感」に感じる違和感

http://d.hatena.ne.jp/nishiohirokazu/20080812/1218520439 の続編。

http://d.hatena.ne.jp/kajuntk/20080816/1218851422

僕とかところてんがファシストで、西尾君はアナーキストなので意見が食い違うのは当然だ。

なるほど。この説明はすごく腑に落ちた。だけどこういう誤解を招きやすい用語を使うと勘違いをする人も出てくるのでもうちょっと口当たりのいい言葉を使いたいな。たとえば「伽藍とバザール」とか。

だから、既に面白いといわれる人、思われる人に参加者を絞らないと費用対効果が得られないよって話。

もしくは完全に<nishio + amachangのセンスピ>って言う匂いを消して、一参加者に徹した方がいい。

この前者が伽藍スタイルのカンファレンスで、後者がバザールスタイルのカンファレンス。「得たいもの」が明確ならそりゃ話す人を絞り込んだ方が費用対効果は高かろう。扱う話題を絞り込んで、その話題に「くわしい人」に話してもらうのが効率がいいだろう。優秀な一握りの人に残りの人が教えを請うスタイル。そういうカンファレンスはすでにたくさんあるじゃないか。

伽藍スタイルのカンファレンスはどうしても東京に集中しがちだ。だって話題を絞り込めば絞り込むほど地方では人を集めにくくなるし、その話題にくわしい人が呼びにくくなるからだ。

一方 1000speakers のようなバザールスタイルのカンファレンスは方向性が逆だ。話題を絞り込まず、多様性を重視する。おたがいに持っている知識を交換しあうことで、おたがいに得をするスタイル。参加者が多様であれば多様であるほど参加者が得るものは大きくなる。

こういうカンファレンスも草の根的にあちこちで行われているはずだ。特に地方ではバザールスタイルのカンファレンスが占める割合が多いはずだ。だけども、規模が小さい場合が多く、なかなか知ってもらうことができない。

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バザール的なカンファレンスをくだらないと見る向きもあるかも知れない。だが、たとえばWikipediaは2001年の1月に作られてから今のような状態になるまでの長い間「くだらない記事しかない」「不正確な情報だ」「アニメと鉄道のネタばっかりじゃないか」と言われていたわけだ。たとえ一つ一つは小さくても、徐々に蓄積していく仕組みを作ることができれば「伽藍的アプローチの方がよい」とは言い切れない。それに、伽藍的アプローチのNupediaが失敗したからこそバザール的アプローチのWikipediaが作られたわけだしね。

1000人スピーカカンファレンスは、月に1回のペースでやって、1000人達成まで8年掛かるプロジェクトだ。8年後にWikipediaのような「継続的に開店し続けるシステム」ができあがっているのか、それとも途中で矢尽き刀折れてしまうのかは予測できない。だけど、少なくとも今は地方開催が行われたり、手伝ってくれる人が出てきたり、とよい方向に進みつつある。

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http://blogs.wankuma.com/naka/archive/2008/08/13/152858.aspx

勉強会なんてモチベーションや、パッションを交換しに行く場であって、一方的に啓示をうけにいくところなんかじゃない。

僕もまったく同じ考えですが、それは僕もわんくまさんもバザール指向ということではないかと。伽藍スタイルの勉強会では一方向の流れになりやすいのだと思います。

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http://www16.atwiki.jp/tokoroten/pages/904.html

なんで、みんなヒンディー語とかスワヒリ語より英語を勉強するの?
英語勉強したほうが価値があるからだよね。

だから、より広い範囲に価値を認められている知識を持っていたほうが優秀であるといえる。

「価値がある」は主観だ。日常会話レベルの英語ができるE氏と日常会話レベルのヒンディ語ができるH氏、インドに子会社を作ろうとしている企業にとって価値が高いのはどちらだ?

さらに言えば「広い範囲に価値を認められている知識を持つことが優秀だ」と考えてそれを学ぶ人がたくさんいるから、その知識では差別化できない。「日常会話レベルの英語ができます」が売りになるだろうか?

例えば僕と同じ27歳で、15の夏から12年間ずっと引きこもってゲームばっかりしているX氏がいたとしよう。彼は僕にない「ゲームの知識」を持っていて、僕は彼にない「プログラミングの知識」を持っているわけだ。そりゃ、僕の方が優れているとも思いたくもなるよね。でも、それは「ゲームの知識なんてくだらない」と思っているから。ゲームの知識に価値を認めていないからだ。もしかしたらX氏は日本のギャルゲについてまとめた本を出版してアメリカでバカ売れするかも知れないし、任天堂の面接を受けてゲームに対する深い洞察を語って面接官を感動させるかも知れない。どちらも僕にはできないことだ。であればくだらない優越感なんか捨てたほうが人生が豊かになるんじゃない?

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http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/nishiohirokazu/20080812/1218520439

id:terazzo 持っている知識の包含関係と考えれば半順序になるよという話。自分の知らない事を人から教われば必ず過去の自分より大きくなるので、周りの人はホント誰でも先生だよね。

結局のところ、こういう思想を持った方が幸せになれるんじゃないか、という「思想」であって、普遍的な「真実」ではないんだ。僕はこの思想を信奉するけど、他の人にまで信奉を迫るのはよくないことなのだろう。

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それはさておき日本人は自分に自信のない人が多すぎる。日本の教育の伽藍的傾向が強すぎるのだろうか。考えてみると僕の中高時代は教師より数学のできる生徒が同人誌的な解説プリントを作ったりとか、地名の由来にものすごく強い生徒がいて地理の時間に先生が解説を求めてたりとか、バザール的な要素が強かったのかもなぁ。

バザール的カンファレンスで、自信を持つことができればいいんだけど。