コンピュータと西田幾多郎について語り合ってみる実験
参考文献:西田幾多郎哲学論集〈1〉場所・私と汝 他六篇 (岩波文庫)
彼> この会話で何が起きて欲しいですか?
僕> 先日、西田幾多郎の「場所」って論文を読んだので、その内容を解説して、理解が深まるといいな。
彼> その先日は、どんな種類の先日ですか?
僕> 前の週末。場所の概念は、論文「場所」で初めて出てくるんだけど、まず「何かがある」という時には、そのものが「於いてある」場所が必要だ、というところから話が始まる。
彼> その直前には何が起こりますか?
僕> えーと、今確認したけど、対象と対象の関係によって体系が成立するという時には、その体系の場所が必要というところからスタートする。その時の具体的な関係とは時間的に移りゆく認識作用と、移り行かない対象との対立関係だな。
彼> その対象は、何のようですか?
僕> イメージとしては物理的な物だな。
彼> そのイメージは、何のようですか?
僕> 西田幾多郎の表現を使うなら、純粋経験だな。
彼> その表現は、何のようですか?
僕> ぐぬぬ、表現というのは抽象的なコンセプトを不自由な言葉という記号列に変換したもののこと。
彼> そのコンセプトは、どこにありますか?
僕> コンセプトは西田幾多郎の頭のなかにある。
彼> そのコンセプトは、どんな種類のコンセプトですか?
僕> 西洋哲学に対する懐疑だね。西洋哲学が前提としている、物と心が別々に存在しているという前提を疑い、その上で疑うことができないものは何かないだろうか、と西田幾多郎は考えたわけだ。
彼> その西田について、他に何かありますか?
僕> ウィトゲンシュタインとか前期・後期なんてわけられ方をするけど、西田幾多郎の哲学も過去の自分を否定して乗り越えていこうという
彼> あなたが価値を感じているのは何ですか?
僕> 戦いの繰り返しだった。僕が価値を感じていたのは、場所の概念だった。野中郁次郎の論文から場の概念の創始者として言及されているのを見て、オリジナルではどういう記述をしているのかに興味をもったんだ。
彼> それから何が起こりますか?
僕> 読んだ結果「場所」という言葉は誤解を招くとして西田幾多郎自身が後の論文で使うことを避けていることがわかった。
彼> その誤解は何が起こるとよいですか?
僕> 西田幾多郎自身は「一般者」という用語を使うようにしている。そういうわけで場の話は特殊・一般の関係と切り離せない概念であることがもっと知られると良い。
彼> それには誤解に何が起こる必要がありますか?
僕> 場の話を紹介する際に、セットにして一般者の話をするべきか。
彼> 誤解はそれができますか?
僕> 誤解自身はそれはできない。僕がそれをできるかというと、ちょっとまだ理解が心もとない。
彼> その誤解自身は何が起こるとよいですか?
僕> NGKW
彼> 次に何が起こりますか?
僕> うーん、場と一般者の関係について聞かれるかな?
彼> その関係は、どこにありますか?
僕> 一般者を対象とする関係は、当然、その一般者とは異なる別の一般者にある。
彼> その一般の時、異なに何が起こりますか?
僕> NGKW
彼> その別について、他に何かありますか?
僕> NGKW
彼> 論文とコンセプトの間には何がありますか?
僕> 論文にはコンセプトが書かれる。
彼> そのコンセプトの時、論文に何が起こりますか?
僕> コンセプトが生まれて、それを他人に伝えるために論文が書かれる。
彼> その他人は、何のようですか?
僕> 生徒。
彼> その生徒について、他に何かありますか?
僕> 生徒は伝えようとしているコンセプトと対立する信念を抱いていることがある。
彼> 次に何が起こりますか?
僕> 生徒は論文を読んで、内容に反発を感じる。
彼> その論文は、どこにありますか?
僕> 論文は生徒の外にある。
彼> その直前には何が起こりますか?
僕> 西田幾多郎が論文の形でコンセプトをアウトプットする
彼> その論文と西田幾多郎の間には何がありますか?
僕> 著者と著作物の関係がある。
彼> その著作物は、どのあたりにありますか?
僕> 著作物は元々西田幾多郎の手元にあるのだが、手元を離れて複製されて生徒の手元に行く。
彼> その生徒は、どんな種類の生徒ですか?
僕> いろいろな種類がいる。自分自身も哲学の研究をしている人から、そうでない人まで。いや、哲学の論文を読もうとしている人は哲学の研究をしていると考えても良いとするなら、全員哲学の研究者とも言える。
彼> 次に何が起こりますか?
僕> 論文を研究する。
彼> その論文は、どこから来るのですか?
僕> 西田幾多郎の中から。
彼> 次に何が起こりますか?
僕> 査読があるかもしれない。
彼> その査読について、他に何かありますか?
僕> 誰が査読したんだろう。
彼> あなたはその査読をどう知るのですか?
僕> 誰がどういう査読をしたのかは読者は知り得ない。
彼> その知りは、何のようですか?
僕> NGKW
彼> その読者と誰の間には何がありますか?
僕> NGKW
彼> 時と、移り行とは同じですか?違いますか?
僕> 時も移り行くのだけど、ここで移り行くって言ってるのは認識のことね。
彼> その移りと認識の間には何がありますか?
僕> 認識が移りゆく、という主語と述語の関係がある
彼> その認識について、他に何かありますか?
僕> 「主語と述語の関係がある」という認識がある
彼> その述語は、どこから来るのですか?
僕> 西田幾多郎は、述語は抽象だと言っている。いちごが赤いという時、「赤い」は「赤いいちご」「赤いリンゴ」などを抽象化した存在だ。
彼> それから何が起こりますか?
僕> 「いちご」よりももっと特殊な存在として、個別のいちごがあり、「赤い」よりも一般な存在として「色」があり「性質」があり…とどんどん一般化した極限が「超越的述語面」であり「無の場所」だ。
彼> その場所は、どこから来るのですか?
僕> 場所という言葉自体は、プラトンのティマイオスが由来だそうだけど、同一の概念ではないって注意が書かれている。
彼> その言葉は、どこにありますか?
僕> ティマイオス
彼> そのティマイオスについて、他に何かありますか?
僕> そこでイデアを模倣して現実世界を作る存在について語られていて、それがユダヤ教の一神論と結びついて、後にキリスト教の権威付けにプラトンの思想が使われる流れを作った。
彼> その権威付けと教の関係は何ですか?
僕> NGKW
彼> そのプラトンの時、イデアに何が起こりますか?
僕> プラトンはある物を見て、例えば犬だ、とわかるのは、犬のイデアが存在するからだ、と言ったわけだ。西田幾多郎の考えはそこで「犬のイデア」「猫のイデア」…という諸々の具体的なイデアと、より抽象化された「動物のイデア」との関係はなんなのか。そしてそうやっていろいろな種類の具体的なイデアが存在するというのなら「イデアのイデア」は何だ、ということかと思う。
彼> そのイデアは、どこから来るのですか?
僕> プラトンはそれについては何も言っていないのではないかと思う。西田幾多郎も無の場所は最初からある…いや、あるって言ったらダメか。もしXがあるなら、かならずそれの場所が必要である、その無限に続く連鎖の極限が無の場所であって、だから「ない」わけか。
なるほど、+1を繰り返す行為の行き着く先としての∞が数ではないように、抽象化の極限としての無の場所もまた有ではない、ということか。