「ネット生活を幸せにする宗教 Virtual Religion」の違和感

ネット生活を幸せにする宗教 Virtual Religionに関して、書かれている内容は(儀式以外に関しては)受け入れられるのに、全体としては強い違和感があったのでなぜなのかを考えていました。結論としては、これは僕の宗教観と末永さんの宗教観の違いが原因だなと思ったのでここにメモしておきます。誤解がないように最初に明記しておくと、これは教義の修正を求めるものではありません。末永さんがこのような文書を公開することで僕が自分の宗教観を明確化する助けになったことに感謝します。

Virtual Religionの教義は、大部分が戒律のリストとして構成されています。おそらく戒律こそが宗教の核という末永さんの宗教観に基づくものなのでしょう。その考えは否定しません。現実に大部分の宗教は戒律を持っています。モーセが得たのも戒律でしたね。see モーセの十戒 - Wikipedia

一方で、僕の宗教観では「世界の仕組みに対する理解」(真理)こそが宗教の核です。初期仏教においてブッダが得たものは「世界の仕組みに対する理解」でした。超ざっくり言えば「苦しみの原因は自分の欲や怒りや無知である」「苦しみの生まれるプロセスをよく知ることで苦しみをなくすことができる」というもの。 see 縁起 - Wikipedia四諦 - Wikipedia

僕の宗教観では、戒律は「理解」を得た後に、組織の維持や信者に具体的な方針を示すなどの目的で事後的に生まれてくるものです。「Virtual Religion」の教義は戒律ばかりで、核になる理解が欠けているように感じます。

また、その戒律にも「〜は気持ち良い行為。〜をしてはいけない」というものが目立ちます。気持ち良いことなのに、なぜしてはいけないのかが欠けています。「気持ち良いことはすべて、してはいけない」と考えている禁欲的宗教でしょうか?そうではなさそうに見えます。であれば「〜は気持ち良い行為だが、〜〜という理由で、苦しみの源である、だから避けよう」の理由の部分が欠けているのではないでしょうか。

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で、ここまでは、戒律のある宗教を信仰している人にだいぶ配慮した書き方をしたのだけども、ここから先は独断的に僕の考えを書くのでそういうのが嫌いな人は避けてください。

個人の周囲の環境は必ず変化する。戒律を教義にすると、環境が変化した際にミスマッチが起きて問題を引き起こす。

個人が持つ「変化に適応する能力」はとても大事なものであり、それを妨げるものは有害である。もしある戒律がそれを妨げるのであれば、その戒律も有害である。

他人が作った戒律を自分で咀嚼し取捨選択すること無く受け入れる心の持ち方は、自分にとって有害な戒律を受け入れてしまう可能性があり、危険である。他人から与えられたものをそのまま受け入れるのではなく、みずから取捨選択することが必要である。また一度受け入れた戒律であっても、状況が変化した場合には捨てることが必要である。

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コメント

>id:K-Ono んー仏教でいうならそれは小乗と大乗の差なんではないか? あえて上座部と書かないけど。

なるほど、確かに僕はまず自分を救うことが最優先で、世界を救うっていう大きな主語について語るのは自分の救済が終わってからだろうという考え方なので、小乗ですね。そうか、数多くの人を救いたいと考えた場合には、自分で考えることを求めるよりも戒律という手軽なパッケージにして配った方が効率がいいわけですね。

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「世界の仕組みに対する理解」という言葉が大げさなので「そんな無茶な」という反応もあるようですが、具体例を上げると以下のようなものです。

  • 自分の幸せは、死の瞬間にどれだけ充実した人生を送ったかで決まる
  • 自分は愚かな生き物であって、短期的な欲望に目がくらんで「自分の幸せ」につながらない行動をとってしまいがちである。
  • 既に社会的制裁を受けている悪い人に対して追加で批判をすることは自分の充実を生み出さない。

「既に社会的制裁を受けている悪い人に対して追加で批判をしてはいけない」という戒律を受け入れる代わりに、上記のような世界に対する理解を受け入れ、そこから論理的に「だから〜をするのはやめておこう」と行動指針が導出されるのです。