プログラムと話しながら記事を書く実験1:生ログ(長い)

彼> この会話で何が起きて欲しいですか?
僕> 速読に関してのブログ記事を書こうと思うのだけど、書いてから添削するのではなく対話を通じて執筆の支援ができるかどうかを実験したい
彼> その対話は、どんな種類の対話ですか?
僕> あー、その質問の答は今ここでやっている対話なのだけど、ユーザが明確にテーマを持っている場合はテーマから外れる質問は却下したいな
彼> その場合は、どこにありますか?
僕> NGKW
彼> その対話について、他に何かありますか?
僕> 対話そのものをコンテンツとして掲載してしまうアプローチは何回か試したけど、現実的には対話形式であることが望ましくない場合がある。もしくは対話形式で良いとしても、この対話形式では話が発散しすぎて読みにくい。
彼> その対話形式は、何のようですか?
僕> まず効いて
彼> 外れは、何のようですか?
僕> まず聞いて
彼> はい
僕> 速読に関して目下のところ一番重要な概念を提案しているのは「フォーカス・リーディング」だと思う
彼> リーディング
僕> どういう概念かというと、簡潔に言えば「目的と書籍の難易度によって適切な『読む速度』は異なるのだから、適切な速度にコントロールする技能が重要」というもの
彼> 書籍
僕> 速読というと速く読む技術だという前提が置かれることが多いけど、速く読むことが適切でない本を速く読もうとしているのならどんな「速読法」を持ちだしてもうまくいかない
彼> 前提
僕> 読むのに書ける時間とそこから得られる価値の量の関係は、S字カーブだと思っている。
彼> 関係
僕> 後で図で表現するけど、易しい本はS字カーブの変曲点が近くにあるので「すぐわかって、すぐ飽和する」という振る舞いをする。なのであまり時間を掛けて読んでも意味がない。飽和するだけ。
彼> 時間
僕> 一方で難しい本は変曲点が遠くにある。なので「ちょっと読んだ」ではほとんど価値が得られない。ある程度読んでようやく勾配の大きなゾーンに到達する
彼> 難し
僕> NGKW
彼> 程度
僕> NGKW
彼> 勾配
僕> そう。それで勾配は変化するので掛けた時間と得られるメリットの関係は線形ではない
彼> メリット
僕> この学習曲線がS字カーブであるなら、時間コストと得られるものの関係、費用対効果の曲線は1つのピークを持つ
彼> 曲線
僕> 理想的にはそのピークを事前に知り得るのがよいのだけど、現実的にはそれは無理なので読みながら調整して良いところに着地することになるだろう
彼> 理想
僕> 話している間に、書こうと予定していたことと違う内容になってきたな。この内容、読書の文脈じゃなくて新しい分野の学習に関して以前書いたことだ
彼> 以前書
僕> Facebookかな、紙のノートかな…自分のFacebookの書き込みは検索できるようにしておかないとこういう時に不便だ
彼> Facebook
僕> Facebookに書いた気がしたけどアクティビティ検索で見つからず、紙のノートを確認したがちょうど会社に置いてきてしまったものに書かれているっぽい
彼> 検索
僕> 記憶から再構築してあとでノートを見て検証しよう
彼> ノート
僕> 簡単な話で、学習対象の「ドメイン」が複数あって、どちらの学習曲線もS字カーブである場合に、短期的に費用対効果が高い対象を選択すると長期的に見て最適ではないものを選んでしまう
彼> 効果
僕> 話を簡単にするためにドメインは2つで、どちらの学習曲線も同じS字曲線だとしよう。自分がドメインAを少し勉強すると、ドメインAの学習曲線の勾配はドメインBのそれよりも急になる
彼> 学習
僕> だから短期的費用対効果では「ドメインAを学び続けるのが有益」となる。長期的にも同じで、だから「いろんな分野をつまみ食いし続けて何一つ使えるところまでにならない」という戦略がダメであることはここから説明できる。
彼> 戦略
僕> しかし短期的な費用対効果を見ていると、次に「ドメインBを学ぶほうが有益」という答えが出るのは、ドメインAの学習曲線が飽和して勾配が減少し、Bの勾配を下回った時になる、これは長期的な費用対効果で見ると遅すぎる。その時刻以降での最適解はドメインAとドメインBの1:1混合だからだ。
彼> A
僕> NGKW
彼> B
僕> NGKW
彼> ドメインB
僕> ふむ、この解説を書き始める前の僕の中での回答は「費用対効果が最大になる点でスイッチするのが長期的視野で最良」というものだったのだけど、それはスイッチした後はドメインAのことを学ばないという暗黙の前提が入っているな
彼> ドメインA
僕> で、その費用対効果が最大になる点は原点からS字曲線上に引いた線の傾きが最大になる点だから、意外と手前だ、という話
彼> 傾き
僕> どちらのドメインもずっと学習し続けられるというモデルだと上記の「Aの勾配が飽和によってBの勾配を下回る点」の時点で1:1になっているのがその点だけを見ると最適だけど、かと言ってAとBを最初から同量ずつ学習するのが最適とは思えない。それは何の考察が抜けているかというと、この方法は「ある時点tでの学習効率」をKPIにしているけど、本当のKPIは「ある時点tまでの積分」だというところだろう。
彼> 方法
僕> あと、この長期的な費用対効果の考え方は「永遠に生きるかのように学べ」(マハトマ・ガンジー)だけど、実際には人間の寿命は有限であるので、有限の時間リソースの配分問題としては別の解になりえる。今度考えておこう。
彼> ガンジー
僕> NGKW
彼> マハトマ
僕> NGKW
彼> 配分問題
僕> 話が脇道にそれた。有益な洞察が得られたけど、それは今回のブログ記事作成の目的には使えないな。資料が手元にないし考察も足りていない。
彼> ブログ記事作成
僕> 予定していた話の流れとしては、S字曲線で勾配が変化して線形でないとはいえ「投入する時間が増えると得られる価値は増える」という相関は認められる、というもの
彼> 価値
僕> そこで、この投入する時間についての軸を縦に引いてピラミッドの図を描いてみよう。これは後で図を描く
彼> ピラミッド
僕> で、そのピラミッドの頂点は一体何か?というと、これは「読まない」なわけだ。
彼> 一体
僕> 読書のいろいろな方法のうち、最も極端に時間を削減する方法は「読まない」だ。
彼> 極端
僕> その極端のちょっと手前について記述している本は「読んでいない本について堂々と語る方法」だろう。
彼> 堂々
僕> これに関しては以前Facebookでこう書いた:タイトルはハウツー的だがそんなことはなく、3つの規範「本Xを読んでないなんてとんでもない」「本を読む以上、通読するべき」「本Xについて語るなら本Xを読んでいる必要がある」について、それが正当化できないことを議論する本。
まずは「読んでない」という状態について詳細化をする。完全に通読したことだけを「読んだ」と言うなら、ほんの分量と人間の読む速度から考えて、ほとんどの読む価値のある本は未読である。僕は以前、ブレインストーミングを話題にする人がオズボーンの著書を読んでいないこととか、KJ法を教えたり使ったりする人が川喜田二郎の著書を読んでいないことに憤りを感じていたものだが、それもまた上記の規範に囚われた考え方で、現実的には無茶な要求だった。
その状況に対する極端な対処策の一例として、本と本の関係について書かれた本だけを読み、それぞれの本が他の本との関係の中でどの位置にあるかを把握することに努める司書の話(フィクション)が紹介されている。もちろん極端ではあるが、読める以上の本を「読まなければならない」と考えるよりは、より現実的な目標設定だと言えるだろう。
ただ、この戦略は、個人的にはあまり楽しくないし、同じ戦略をとっている人の間での差別化につながらない。こういうものこそコンピュータに押し付けるべきではないだろうか。
彼> 著書
僕> それよりはもう少し時間を掛ける読書の方法論として「フォトリーディング」がある。
彼> 読書
僕> 視点をぼやかしてスキャンすることで潜在意識に取り込まれて有益であるうんぬん、という怪しげな部分は無視するとして、この本は「読む」を始める前の準備として目的の明確化や目次などからキーワーを抽出する作業をやったり、都合5回読んだり、と実は意外としっかり読む手法だ
彼> キーワー
僕> NGKW
彼> スキャン
僕> まあ、「1冊10分で読める」というセールスコピーは嘘ではなくて、1冊10分のペースで目を通すことを「読む」と定義しているだけの話
彼> セールスコピー
僕> 1冊300ページで換算すると、1ページ2秒。見開きで4秒。意外とゆっくりだ。
彼> ページ2
僕> NGKW
彼> 300ページ
僕> もちろん、小学校などでやらされる、本を声に出して音読する、というスタイルに比べるとだいぶ速い。音読は1秒に300文字ぐらいで、1ページ900文字で換算すると、1ページ3分、1冊で15時間、という計算になる。これに比べれば圧倒的に速い。
彼> ページ3
僕> NGKW
彼> 音読
僕> フォーカス・リーディングは速度のコントロールを重視している方法だが、ざっくりどのあたりの速度かというと、見開き3秒、1ページ3秒、1ページ6秒、1ページ12秒、1ページ24秒、というあたりからの選択だから、フォトリーディングと音読の間を帯として埋める感じ。
彼> 1ページ3
僕> NGKW
彼> 1ページ
僕> 1ページ24秒は1分に2250文字で、これは速解力検定の基準では5段の2500文字/分と同じぐらい。音読の300文字/分はこの検定では8級。この辺りが「音読と同程度の理解」を前提とした速読の占める帯
彼> 2500文字
僕> それより遅い側にあるのが「難解な本を読む技術」で、これは1冊20時間を目安にしている。
彼> 1
僕> NGKW
彼> 20
僕> NGKW
僕> test

(バグを踏んで反応がなくなったのでサーバを再起動)

僕> そこよりも更に遅い側にあるのが数学科のゼミの準備法で、1回のゼミの準備に50時間とか100時間を掛ける
彼> その準備は、どんな種類の準備ですか?
僕> まずは聞いて
彼> あなたは時間をどう知るのですか?
僕> まず聞いて
彼> はい
僕> 反対側の極限はあるだろうか?つまり、読書における時間を掛けない方の極限として「読まない」があったように、時間を掛ける方の極限としてそれ以上時間を掛けられない何かがあるか?
彼> 時間
僕> 禅の考え方には「座禅をして仏になるのではない、座禅をしている状態が仏である」という、手段のようにみえるものが手段ではなく目的である、という発想の転換がある
彼> 発想
僕> これを読書に適用すると「読書をして学ぶのではない、読書をしている状態が学びである」という考え方が導出できる。
彼> 方
僕> この考え方での読書には終わりなどないので、それ以上に時間を掛けることはできまい。
彼> 読書