不安のしずめ方 40のヒント レバレッジメモ

コンビニで売ってる本の割にはわりとまともだった。「40のヒント」ってタイトルは多分編集に押し付けられたんだなーという感じでヒントが40個あるという感じではなかったが、いろいろな文献を引用しつつ不安とはなんなのか、という解説がなされていた。



人は自分の価値が脅かされると不安になる。見捨てられる状況で不安になる。見捨てられるのが不安なのは人は皆淋しいから。

「人間は、危機状況に遭遇した時の処理能力の点で、大いに異なっている」ロロ・メイ「不安の人間学

だからその処理能力を高める努力は生きていく上で大切

不安に怯える人は自分の力を試す機会を避ける。創造性を発揮する機会はない。自分から避けてしまう。

不安には現実的な不安と神経症的な不安の二種類がある。理屈に合わない不安や恐怖、焦燥感。

不安なときには不安の原因を突き止めることが大切。

「もっぱら結果だけを重視する態度は、しばしば人生から喜びを奪う」エレン・ランガー

カレン・ホルナイは不安からの逃避として「迎合」「攻撃」「ひきこもり」の三つをあげている。

迎合していると自分の価値に自身がなくなる。

迎合とは具体的にはおおよそ次の3つ 1:従順、遠慮 2:仕事熱心、真面目、優れていようとする 3:無理して明るく振舞う

子供は親から見捨てられる不安を持つ。それゆえ良い子を演じる。その結果、子どもは生きること自体が不安になる。
「良い子でなければ愛さない」という脅し。子供にとっては確かに脅し。大人のあなたがそれに怯える必要はない。

「大人になってからの対人関係は、幼児の生活のうちに作り上げられ、後年の生活で繰り返され」る フロム=ライヒマン「人間関係の病理学」

エーリッヒ・フロムの考え方。第一時的絆を失い第二次的絆を得られないときに人は不安になる。第一時的絆は個性化以前に存在した母親との一体感。個性化の過程で肉体的にも精神的にも強くなっていくが、反面孤独が増大する。自分の役割や人生の意味が感じられなくなる。自分の無力さ・無意味さの感情が募る。そこで個性を投げ捨てて孤独から逃げようとする衝動が服従である。エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」P44~45

従順は問題を解決しない。

従順は素直とは違う。素直な人は相手とコミュニケーションできる。従順は相手に合わせることでコミュニケーションすることではない。

迎合する人はいい人と見られたいと思っている。しかし多くの場合、軽く見られている。

「犠牲を払うから幸せになれない」タタルケヴィッチ

神経症傾向の強い親に育てられた子供は、大人になっても周囲が自分に従順を強いていると錯覚する。相手は別に従順を要求していないのに。

どうして世界を脅威に感じるのか?親が自分とは違う自分を期待し、自分がそれに応えようとしたからである。ありのままの自分が親に受け入れられているという基本的安心感。「ノー」と言ったら捨てられるという不安感。大人のあなたに取って世界は脅威ではない。あなたが勝手に脅威に感じているだけ。「周囲の世界は怖くない」と自分に言い聞かせる。

真面目で仕事熱心なのは望ましいこと。しかしなんのために?不安からの現実逃避なのか目的追求なのか?

良い子は見捨てられる不安から自分を守るために、追われるように生真面目になっている。

失敗しないか、という不安。失敗すると何が起きるのか?「人の期待に応えられない」これは子供の頃から人の期待に応えることで生きてきた従順な人にはストレスが強い。

幸せな人とは、自分では頑張っているつもりがないのに、傍から見ると頑張っているように見える人ではないか?愛を動機とした努力と劣等感を動機とした努力はまったく違う。勝利をもたらすのは愛を動機とした努力である。

目標を持って頑張るときには頑張りすぎない。維持できないほど頑張ったのでは目標を達成できない。

不安から頑張っている人は、いつも緊張しているので疲れやすい。心のなかに支えのある人は周りがどうかわろうが怖くない。それがない人は困難や変化に弱い。

真面目である以外に人との接し方がわからない。だからコミュニケーションが出来ない。努力をしたが、自分が生きるための努力ではなかった。他人からの期待に応えるための努力だった。そしてその期待は自分の能力に比べて大きすぎた。

価値観の再構成が重要。

この世の中にはずるい人がたくさんいる。不安な人をかぎわける天才である。おだてる。自分が燃え尽きたときに彼は助けてくれるのか?ずるい人からちやほやされるより一人のほうがいい。あなたが自己実現をしようとしたときにそれを非難する人は質の悪い人。人から搾取する人。力を奪う人。切り捨てろ。心身の調子が悪い人は人間関係を整理しないと行き詰まる。あなたのためになることは具体的にはしないのに、さわりのいい言葉だけを掛けてくる人は切り捨てる。

無理して明るく振舞う、という仮面を捨てる。陽気さは時に不安を覆い隠すための仮面でしかない。自殺した子を「明るい子がなぜ?」等と言われる。不安を隠すための手段が明るさだったのでは?

何か(他人の攻撃など)をやめてみて、不安になる、それによって不安が理由でその行動をしていたことがわかる。

不安を本質的に鎮めたければコミュニケーションが出来るようになる必要がある。

最終的には自分の人生は自分の責任だ。そう思えばいろんな角度から自分の人生を考える。人生を人任せにしているとその人に迎合する。「自分の人生は自分の責任」と思っていないと、他人のアドバイスにすぐその気になってしまう。自分で判断しなければ。

高齢者の90%は自分が認知症になる可能性があると考えているが、医学的統計によれば64歳以上の老人で重度の認知症になるのは4%、軽度でも10%

人は様々の不安を持つ。しかし準備はしているか?不安に思っていることについて詳しい知識を得ようと調査しているか?願望はもつが実現するための努力は嫌なのである。そして、そういう自分を認めない。「努力すればいいじゃん」というと恨まれる。彼が求めているものは一緒になって「やだねー」と言ってくれる人なのである。具体的なアドバイスが欲しくなるのはエネルギッシュになってからである。

実際に行動するための考え方。「案ずるより産むが易し」「次善の策」最良の解決策に執着して次善の策を取れないまま最悪の策を取る。例えば健康に寝て起きるのが最高だが、それができないなら次善の策として睡眠薬を飲んで寝るべき。なのに断固拒否して結果眠れないで体調を崩す。目的はなんなのか。人間はスーパーマンではない。理想を追い求めるのではなく、現実的な解決を。

焦っている人も次善の策を取れない。次々に自分の思ったことを達成するのが理想だが、現実にはなかなかそうはいかない。

スーパーマン強迫症。スーパーマンになることで社会に貢献しようと思っているのならできなくても焦らない。心の葛藤を解決しようとしているから焦る。

次善の策とは「できることをすればよい」ということである。できないことはできない。

悩んだときは「いま私の脳が毒に侵されているだけだ」と自分に言い聞かせる。



やたら他人を攻撃する人がいて、同意できない主張をしているからそれは違うんじゃないのって突っ込んだりすると絡まれる。今までは自分が被害者だと思っていたけど違うんだなぁ。ああいう人は不安で、不安を解消するために他人を批判することで心の平穏を得ているんだな。それを僕が「正論」という名前の攻撃でいきなり引き剥がすから恨まれるんだ。被害者はあちらなんだなぁ。

僕は自分が間違っていると思う情報が訂正されないまま流通することを嫌っているだけなので、訂正はするが訂正されたことに彼らが怒った場合にはそれ以上正論で畳み掛けたりしない方がいいんだろうなぁ。