灘校土曜講座「学び方のデザイン」の講義資料を公開しました

本日、灘校土曜講座で行った講演「学び方のデザイン〜盲点に気づくことから始まる学びのプロセス」の講義資料を公開しました。


http://www.slideshare.net/nishio/ss-40713032

この講義は京都大学サマーデザインスクールで3日間掛けて行ったワークショップ「学び方のデザイン〜盲点を見つけよう」の内容を1時間に圧縮したものになっています。より詳しく知りたい方はこちらをどうぞ: http://nhiro.org/kuds2014/

取り急ぎ、使用したスライドをそのまま公開しました。

追記: 加筆バージョン

口頭で喋った内容を書き足したバージョンを公開しました。こちらの方が話の流れはわかりやすいかと思いますが、字は細かくてたくさんあります。

下では頂いた質問に少しずつ答えていっています。

Q: 小説の全体像を簡単に見渡せると、本を読む楽しみが減るのでは?

そうですね、本を読む行動の「目的」が何かを明確にする必要があると思います。

小説を読む場合は「楽しむこと」が目的ですよね。なので速く読めたり、全体像を見渡せたりしても価値がないわけです。一方、例えば技術書を読んでいる場合は「知識を得て、自分の中で体系化、応用する」が目的です。この目的のためには、速く知識を得られること、全体像がわかりやすくて体系化しやすいことには価値があります。

Q: 資本家が利益を得るのは確かだが、資本家のお陰で労働者も利益を得ているのでは?

その通り。資本家の所有する機械を使うことで、使わないで働くよりたくさんの価値を生産できて、一部を資本家に取られてもまだ得なのです。だから労働者は自由意志でそういう働き方を選ぶわけですね。

世の中には会社で働きながら「会社に搾取されてる、会社は悪だ」みたいなことを言う人もいます。しかし、その会社で働くことを自由意志で選んだのは自分自身なのに、変ですね。あなたの主張の方が筋が通っているように思います。

Q: 意思決定の正しさは有益さで決まるということは、後から正しさが変わることがありえるということか?

はい、そういうことです。

純粋数学における正しさは、公理が変わらない限り変化しないので、そのイメージでいると「正しさが後から変わりうる」という考え方にギョッとするのかもしれませんね。では純粋数学以外の正しさの定義を考えてみましょう。

自然科学における正しさの定義にも「現時点で反証されていない」が含まれているので、反証された時点で正しさが変わります。フロギストンとか天動説とかエーテルとか、一時期正しいと思われていたのに正しくないと判断されて消えていったものはたくさんあります。たとえば「希ガス原子は化合物を作らない」という命題は1962年に正しくなくなりました。1962年にフッ化白金とキセノンが化合してフルオロ白金酸キセノンができることが発見されたためです。

別の例を考えてみましょう。ここに52枚のトランプがあるとします。1枚取って机に伏せました。あなたはこのカードがキングであることに100円賭けることができます。もしキングなら、1500円手に入れます。違えば、100円は没収です。さあ、賭けるのが正しいでしょうか、賭けないのが正しいでしょうか?

「1/13の確率で15倍になるので得だ、賭けるのが正しい」と考えて賭けたとします。では、残りカードを1枚めくってみましょう。ハートのキングが出たとします。さて、賭けたのは正しかったでしょうか?

「3/51の確率で15倍になるのでは損だ、賭けたのは間違いだった」と考えるでしょうか。それでは残りカードをもう一枚めくってみましょう。おっと、またハートのキングです。「ここに52枚のトランプがある」とは言いましたがそのトランプが各カード1枚ずつの1デッキだとは言いませんでした。さて、賭けたのは正しかったでしょうか?

伏せられているカードに何が何枚入っているかに関する情報がないので、正しいのかどうか確率計算では判定できなくなった、と考えますか?それとも「仮に全く無作為だとすると2枚目と3枚目がたまたま一致する確率は1/52であり、とても小さい。だから無作為ではないと考えるのが妥当だ」と考えるでしょうか?

では伏せカードを開いてみましょう。ハートのキングでした。あなたは賭けに勝ち、1500円を手に入れました。賭ける選択は正しかったようです。

このように「正しさ」という言葉の使われ方をよく観察してみると、新しい情報が得られた時に正しさが変化する使われ方も多々あることがわかるかと思います。

感情面での価値について

Q: 意思決定の正しさの定義付けにおいて「その判断が自分にとって有益だったのかどうか」とあったが、有益のついての定義付けも必要では?財産や知識はわかりやすい例だが、楽しかった、面白かったなどの感情的快楽しか残らない結果であっても、人によっては有益では?
Q: 意思決定の正しさにおいて有益かどうかは理性もしくは論理的な正しさだけで決まらないのでは?感情論で正しさを決めることもできるのではないか?

鋭い指摘です。これは有益さに基づく正しさの定義の弱点を突いています。

講義では論理に基づいた正しさの弱点を指摘して、反証可能性に基づいた正しさの話をして、次にその正しさの弱点を指摘して、有用性に基づく正しさの話をしました。時間の都合で言及しませんでしたが、この正しさにも弱点があります。「正しさは人生に対する有用性で決まる」という定義は「人生」の定義が曖昧であるところが弱点です。生物としての我々が生存する為に有利ということか?社会生活を送る上で有用ということか?それとも単に生きるだけなく、自分の理想の人生を生きるために有用ということか?

この2つの指摘で、僕の盲点が明らかになりました。有用性に関する例を挙げる際に、感情についての言及がなかったのは、僕が「感情面での価値」に気づいていなかったからです。これは僕の弱点でもあります。自分の感情をないがしろにして、目標達成のためにタスクを詰め込みすぎて、そのうち心が疲弊して燃え尽きてしまう……そんなことが人生の中で何度かありました。僕はもうちょっと、自分の感情に配慮する必要がありますね。

次の質問も人生の定義に絡む話です。

Q: 死後に研究が評価されるケースは、その人の人生の有益さにつながらないので正しくないのか?

それはその人の人生の目的、充足したい欲求によって決まります。

もし彼が「自分の研究が世界に評価されて『すごいですね』と言ってもらいたい」場合、彼が死ぬ時点では彼の選択は正しくなかったことになります。もっとわかりやすいテーマを選択すべきだったかもしれません。研究に割く時間を少し減らして、対外露出に時間を割くべきだったかもしれません。「世界一受けたい授業」みたいな番組への出演を目指してテレビ局に営業をかけるべきだったかもしれません。

もし彼が「なぜ何々が起こるのか知りたい」場合、研究を世界が評価するかどうかはどうでもいいことです。知ることができたら満足して死ぬことができます。知ることができなかったら、彼の選択は正しくなかったことになります。借金をしてでももっと良い実験器具を買うべきだったかもしれません。視野を広げるために別の分野を学ぶべきだったかもしれません。研究途中の情報をもっとオープンにして、他人からのフィードバックを求めるべきだったかもしれません。

もし彼が「何々の問題を解決して周りの人を幸せにしたい」場合、問題の解決に成功すれば問題を抱えていた人たちはあなたの研究を評価するはずです。世界のその他大部分の人が彼の研究を評価しなかったとしても、それは彼にとってはどうでもいいことです。彼の関心事は、評価ではなく、周りの人が幸せになったかどうかなのです。うまく行かなかったのなら、もっと周りの人の話を聞くべきだったかもしれません。

もし彼が「面倒なことにわずらわされず、研究に没頭して生活したい」場合、評価されるかどうかはどうでもよいことです。むしろ評価されて取材依頼が来たりするとわずらわしいです。こういう人は目立ちにくいのでどれくらいの人数がいるのかよくわかりませんが、ヘンリー・キャヴェンディッシュグリゴリー・ペレルマンなどが典型例なのかなと思います。ペレルマンの事例なら、世界は彼を評価しましたが、彼はそれを「失敗」と捉えているかもしれませんね。

このように、彼がどういう欲求を持っていて、人生で何を目的としているかによって、彼の行った選択の正しさは変わります。

Q: 後から完成度を高めるアプローチを代数などの応用に使う方法が見つからないが、なにかいい方法があるか?

なるほど、これは盲点でした。

数学の特に証明問題は「論理の飛躍なくきっちりやること」を要求する試験なので、直列の豆電球が一つ切れたら全滅するみたいに、一つ間違えると全体が「正しくない」ものになります。

イデア出しは正反対で、並列の豆電球がどれか一つ切れていものがあれば点灯するように「色々出して、中にひとつでもいいものがあればよい」という要求です。

なので、証明をきっちり埋めるフェーズではなく、どうやって問題を解くかアイデアを見つける段階なら有用だと思います。例えば何かの一般解を求める場合に、いくつかの具体的な値について計算して、ゴールの一般解がどんな形をしているのか推測するとか。

数学の歴史の上では、後から厳密な理論化をした事例は何度も起こっていますね。高校生にとって身近な例としてはヘヴィサイドの演算子法とかでしょうか。高校物理で微積分が絡む問題の解き方を習った時に、数学で習った「正しいやり方」を逸脱した式変形をしたりして「なんでそんなことやっていいの」と思ったような記憶があります。

ヘヴィサイドの演算子法もやはり当時の数学者に「その解き方、全然数学的に正しくないじゃん」と突っ込まれて「どうして正しい結果が出るのか説明できなくても、実際こうやれば解けるんだからいいだろ!」と有用性に基づいた正しさを主張したわけです。

Q: 問題を生み出す際に「現実を先入観なしに見ることが大事」という話だが「理想」の確認も必要なのでは?何らかの正義のない理想に現実を近づけることに果たして価値があるか?

正義とか「倫理的な正しさ」とかは、何によって定義されるのでしょうか?それは他人と共通した正しさでしょうか、それとも個々人が持つ正しさでしょうか?「人を殺してはいけないか」という簡単な問題では、大部分の人の答えが一致するでしょう。では「Aさんを殺さないと別の100人が死ぬ」という場合は?「Aさんを殺さないと自分が死ぬ」という場合は?

宗教は「正しさ」の定義を与えてくれるかもしれません。しかし歴史を紐解けば、異なる宗教を信じる人の間で何度も争いが起こったことがわかります。宗教は解決策になりません。

例えば皆さんがまだ小さい頃、A国で沢山の人が死ぬ事件がありました。A国政府は、明確な証拠なしに犯人がBであると断定し、C国にBの引き渡しを求めました。C国は「証拠がなければ引き渡さない」と、彼らの正義に基づいて断りました。その結果、A国は自分たちの正義に基づきC国に対して戦争を始め、たぶん沢山の人が死にました。どちらが正しかったのでしょう。

A国は更に「D国は悪を支援している国だ」「D国は危険な兵器を持っている」と主張し、A国を守るためには予防的措置と先制攻撃が必要だとして、自分たちの正義に基づいてD国に対しての戦争を始めました。これは正しいことでしょうか?

日本でも僕が中学生の頃、ある宗教団体が「自分たちの正義を脅かす悪」を止めるために13人が死ぬ事件を起こしました。今、この宗教団体が正しかったと考える人はほとんどいないでしょう。しかしこの団体の幹部には高学歴の「頭のいい人」がたくさんいました。ググればわかることですが灘のOBも少なくとも2人いましたし、2人とも東大理三に現役合格する程度には頭が良かったはずです。

こういうことが起こったという事実と、あなたの中の理解とには、ギャップがあるでしょうか?あるならば、事実を例外として無視するのではなく、理解を修正することが必要でしょう。それが今回の「学び方」の講義の一つのテーマでした。

正義に関する議論としては、最近ハーバード大学で行われたマイケル・サンデル教授の授業などが話題になりました。これを見るのも良いかもしれません。

Q: 正しいことのように人が述べていることにツッコミを入れるのも視点を変えることか?

みなさんからのツッコミで、僕はいろいろな盲点に気づき、学びが加速されています。ありがとうございます。ツッコまれることはとてもお得です。

ただし「ツッコミを入れる」のには注意が必要です。入ってきた情報に対して「即座に反論しよう」という態度で居ると、使い慣れた考え方のパターンで反応しがちになります。この精神状態にどういう問題があるかはわかりますね?

「入力に対して決まったパターンで行う反応の素早さ」という能力は、センター試験などでは有用でしょう。ただし、これはコンピュータによる自動化によって陳腐化されやすい能力です。

Q: 資本主義が壊れてない原因として、資本家のほうが社会的権力が大きいことがあるのでは?

そうですね、その解釈もありです。それも解釈、知識が資本であるというのも解釈、どちらも条件を変えて実験することは困難です

どの解釈を選ぶのかに関して、色々なアプローチがあります。例えば「いろいろな国によっての違いを調べることで比較実験としよう」という科学的アプローチがあります。もう一つのアプローチは「自分の人生に取って有用か」という実用主義的アプローチです。僕に取って「知識は資本」という考え方は有用でした。「資本家の権力が強い」という解釈はいまのところ有用な使い方が思いつかないので、現時点で僕にとっては有用ではありません。

「資本家は労働者を搾取していて、しかも革命が起きないようにする権力ももってる」という解釈は、多くの人にとってやる気が減退するという「負の有用性」があるんじゃないかなと懸念しています。

Q: 検索で簡単に得られる知識にも価値はあるのでは

Q: 「検索で簡単に得られる知識に価値はない」に関して、検索しようとしないと知ることができないので、会話で出すことで聞き手は検索しなくてもその知識を得ることができ、価値があるのでは?
Q: Googleで検索すれば出てくる知識でも、その場ですぐに口をついて説明できることには、頭で整理できているという点でいろいろな意味で価値があると思う。
Q: GoogleWikiのせいで知識の価値が下がったという話だったが、Wikiに乗っているようなことをスラスラ語ることができればすごいなと思われて、価値があると思います。

はい、価値はゼロではないです。

視点を変えてみましょう。あなたが会社の経営者で、社員を増やそうかどうか考えているとします。Aさんが面接に来ました。彼はキーワードを話しかけると、それでググッた結果とWikipediaの該当ページを暗唱できるというすさまじい記憶力を持っています。しかし、それ以外に関してはまったくの無能です。彼を雇いますか?雇うなら月給いくらまでなら払えますか?

その金額が、彼の持っている「検索で簡単に得られる知識」のあなたにとっての価値です。

Q: 応用のために必要な知識には価値があるのでは?

Q: 検索で得られるような知識を知って、その上で応用的なことを考えられるのでは?
Q: 別の誰かが解決した問題には社会的に価値はあまりないけど、そこから発展した問題を解決するために必要なので使い方によっては価値が生まれると思う

その通りです。すみません、僕が伝えたかったこともそれなのですが、伝え方が悪かったようで誤解を招いてしまいました。

伝えたかったことは「IT技術の進歩による『中途半端な知識』の価値の低下」です。

ある問題Xを解決するために知識Pが必要だとしましょう。AさんはもともとPを詳しく知っていました。BさんはPには詳しくないけども「QってサイトにPのことがまとめてあったからそれを読めば詳しい知識が得られる」という知識Rを知っていました。Cさんは知識Rすらも知りませんでしたが、問題Xに出会ってからGoogleで検索したらサイトQが見つかりました。

彼らはみんな同様に問題を解決できたとしましょう。彼らの生み出した価値には差はありません。ということは知識PやQを知っていることは差別化の要因にならないということです。

具体的に問題Xが「いくつかの枝分かれのある道筋から最短の道を探したい」だとしましょう。これはダイクストラ法という知識Pを使えば解けます。Aさんは何も見ずにダイクストラ法の実装をできます。すごい。Bさんは「WikipediaってサイトQにダイクストラ法の解説が載っている」と知っていました。これです。。Cさんはそれも知らないので「一番短い道 アルゴリズム」でGoogle検索します。Wikipediaには直接はたどり着きませんが「最短路問題」「ダイクストラ」「グラフ」「ルーティング」などの新しいキーワードが見つかります。キーワードを組み合わせて試行錯誤していると割とすぐWikipediaの解説にたどり着きます。

ここで価値を生み出しているのは、ダイクストラ法自体の知識ではありません。「この問題がダイクストラ法で解けるかどうか判断できる知識」「Wikipediaの解説(やサンプルコード)を読んで理解できる知識」「解決法を見つけ出す方法論の知識」などが価値の源泉です。よりメタな領域に価値が移動しているのです。

講義中でも説明したように、この種のメタな知識だけを直接学ぶことはできないので、具体的な知識を学ぶ必要はあります。しかし、具体的な知識をたくさん集めても「中途半端な知識」に過ぎず、その価値は今後どんどん失われていきます。中途半端な知識をたくさん集めることが目的なのではなく、抽象化に十分な量を集め、抽象化することでメタな知識を得ることが目的です。それを目指していかなければ価値を生む知識は得られません。

Q: 「知識は資本」の根拠は?

「新卒と中途に給料格差がある」という観測事実があります。つまり新卒と中途では何か「持っているもの」が異なり、その違いが「給与の差」という経済的な出力の差につながっているわけです。これをなんと呼ぶかは単なるラベルの付け方なので、もし納得できなければ自分で別の名前をつけてもかまいません。僕はこれを「新卒と中途では『知識』の差があり、それは経済的出力の差をもたらすので『資本』である」と解釈しています。

Q: 「最終決定はリーダーが行う」ということがよく行われていると思うが、リーダーでもすべての知識を持っているわけではない。このようなことが減って欲しい。

気持ちはわかりますが「最終決定の正しさ」が価値であるのと同様に「時間」もまた価値です。合議は独裁よりも時間が掛かります。「最終決定の正しさ」を得るために「時間」を消費することが合理的かどうかは、個々人の価値観によって異なります。

Q: 人生において「正しい」ということはいいことなのですか?もしいいことなのだとしたら「成功体験が発想の転換の妨げとなる」ということに反するのでは?

成功体験が発想の転換の妨げになっている状況では、過去の選択Xが「正しかった」と信じているわけです。実際、人間には過去の選択が正しかったと信じやすい「自己正当化」の傾向があります。この状態は新しいものを学ぶ機会を損ねます。機会損失が、過去に選択Xから得られた利益を上回った場合、冷静に彼を見ている人には「選択Xは正しくなかった」と見えるでしょうね。その状態でも彼は「選択Xは正しかった」と信じているわけです。

もし、そのような状態に陥っている人を何とかしたいのであれば「選択Xは正しくなかった」と主張するのは得策ではありません。過去は変えられないので感情的な反発を生むだけです。こういう状況では現実に起きているor未来に起こりうる損失に注目させ、それを避けるために今何ができるかを考える方向に持っていくのが良いと思います。

今回の講義でも、僕は「君たちが灘校に入ったのは間違いだった」と主張するのではなく、それによって未来に起こりうる損失に注目させ、それを避けるために慣れた方法とは違う学び方を提案したわけです。

Q: 行動しないという選択肢は有益か無益か

行動に掛かるコストと、得られるリターンに依存します。全部やるとコストが高いものでも、試しにちょっとやってみて、ダメだったらやめる、という選択肢が取れることがあります。この場合、まずはちょっとやってみて、リターンがどの程度かという「知識」を得て、それから本格的にやるかどうかを決めることができます。「PDCAを小さく速く回す」の一例ですね。そういうことも含めて考えると「行動しない」が最良の選択肢になるケースはとても少ないと思います。

Q: 「頭のなかだけで考える」の例で将棋を例にあげていましたが、将棋は頭の中だけで先読みを行うのでわかりにくい。

たしかにそのとおりですね。将棋の強くない人には頭の中だけで読むのが苦手なので納得してもらいやすいわけですが、強い人は頭の中だけで考える能力を鍛えてそれによって勝利を得ているわけですね。確かに例としては適切ではなかったです。

Q: 抽象化して一段深いところから見てみるという話がありましたが、抽象化をさらに深めて分野を超えて通用する知識(知恵?)を作り出すことができないかと思いました。

僕は、それが哲学だと思います。今回は「『正しい』とはどういうことか」でしたが「『知識』とはなんだろうか」とか「『わかる』とはどういうことか」とか、分野を問わず関係してくる知識です。

Q: そうすれば他人の意見を使わずとも解決でき、超人になるのではないかと思いました。

うーん、どうだろう。超人を目指すことは個人の鍛錬として有益だとは思いますが、超人になるためのコストと他人と対話するコストでは前者のほうが高くて経済的には対話する戦略の方が有益になる気がします。

Q: ふせんとボトムアップトップダウンのところが面白かったので自分で調べようと思う

参考文献を書いていませんでしたね。川喜田二郎の「発想法」「続・発想法」「『知』の探検学」がおすすめです。
もしくは僕が京都大学サマーデザインスクールでやった講義資料でこの本の内容を説明しているので最初の一歩としてこちらを読むのもよいでしょう。 http://nhiro.org/kuds2014/