「読む技術」を俯瞰する

速読に関して目下のところ一番重要な概念を提案しているのは「フォーカス・リーディング」だ。簡潔に言えば「目的と書籍の難易度によって適切な『読む速度』は異なるのだから、適切な速度にコントロールする技能が重要」というもの。速読というと速く読む技術だという前提が置かれることが多いけど、速く読むことが適切でない本を速く読もうとしているのならどんな「速読法」を持ちだしてもうまくいかない。

この投入する時間についての軸を縦に引いてピラミッドを描いてみよう。このピラミッドの頂点Aは、読書法の中で最も時間を使わない極限だ。これは何か?

これは「読まない」だ。読書のいろいろな方法のうち、最も極端に時間を削減する方法は「読まない」だ。

その極端のちょっと手前Bについて記述している本は「読んでいない本について堂々と語る方法」だろう。タイトルはハウツー的だがそんなことはなく、3つの規範「本Xを読んでないなんてとんでもない」「本を読む以上、通読するべき」「本Xについて語るなら本Xを読んでいる必要がある」について、それが正当化できないことを議論する本。

この本ではまずは「読んでない」とはどういう状態かを詳細化をする。完全に通読したことだけを「読んだ」と言うなら、本の分量と人間の読む速度から考えて、ほとんどの読む価値のある本は未読である。僕は以前、ブレインストーミングを話題にする人がオズボーンの著書を読んでいないこととか、KJ法を教えたり使ったりする人が川喜田二郎の著書を読んでいないことに憤りを感じていたものだが、それもまた上記の規範に囚われた考え方で、現実的には無茶な要求だった。

その状況に対する極端な対処策の一例として、本と本の関係について書かれた本だけを読み、それぞれの本が他の本との関係の中でどの位置にあるかを把握することに努める司書の話(フィクション)が紹介されている。もちろん極端な例ではあるが、読める以上の本を「読まなければならない」と考えてストレスをためるよりは、より現実的な目標設定だと言えるだろう。

フォトリーディング」([新版]あなたもいままでの10倍速く本が読める)はもっと時間を掛ける方法Cだ。「視点をぼやかしてスキャンすることで潜在意識に取り込まれる」とかいう怪しげな部分は無視した方がいいと思うけど、この本自体が素早く読めて「速読とはどういう方法か」の概要を理解できる本。読む前の準備として目的の明確化が必須なことや、目次などからキーワードを抽出する作業、5回繰り返して読む練習法などが解説されている。タイトルからの印象に反して、意外と時間を掛けて読む手法だ。最高速度では1ページ1秒で読むので、1冊300ページで計算すると、1冊5分となる。もちろんこの数値に準備の時間は入っていないことには注意が必要だろう。

小学校などでやらされる「本を声に出して音読する」という読み方Fは、1分に300文字ぐらいの速度だ。なので、1ページ900文字で換算すると、1ページ3分、1冊で15時間、という計算になる。この2つの読み方の間に2本の帯がある。

まず速い側の帯Dは、フォーカス・リーディングだ。これは速度のコントロールを重視している方法だが、ざっくり言えば、見開き3秒、1ページ3秒、1ページ6秒、1ページ12秒、1ページ24秒、というあたりの速度を中心に考えている。遅い方の帯Eが速解力検定の考える読み方だ。1ページ24秒は1分に2250文字で、これは速解力検定の基準では5段の2500文字/分と同じぐらいになる。音読の300文字/分はこの検定では8級になる。

音読Fは一番遅い読み方だろうか?いや、違う。音読より遅い読み方もいくつもある。その一つが「難解な本を読む技術」Gだ。この本は哲学書などの難しい本を、読書ノートを作りながら2回読むやり方を解説している。難解な本にはどういうパターンがあるのか、開いた本か閉じた本か、外部参照が必要かどうか、批判的に読むのか同化するように読むのか、などの切り口で難解な本への取り組み方を解説している本だ。これは1冊20時間を目安にしている。

これよりもさらに遅い側にあるのが、数学科で訓練されている数学書の読み方Hだ。わからないものをわからないまま放置して読み進めてはいけない、という考え方だ。その読み方では、1回のゼミの準備に50時間かかるのは不思議ではない、という。(How to prepare for seminarspreparation

読書のピラミッドに、頂点と反対側の極限Iはあるだろうか?つまり、読書における「時間を掛けない方の極限」として「読まない」があったように、「時間を掛ける方の極限」としてそれ以上時間を掛けられない何かがあるか?

の考え方には「座禅をして仏になるのではない、座禅をしている状態が仏である」「手段のようにみえるものが、実は手段ではなく目的である」という発想の転換がある。これを読書に適用すると「読書をして学ぶのではない、読書をしている状態が学びである」という考え方が導出できる。この考え方での読書には終わりなどないので、それ以上に時間を掛けることはできまい。


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補足:

私は、読書をしている状態が学びであり目的である、という考えには賛成出来ない。学びも目的ではなく手段だと思うから。また、今回の話は1冊の本の読み方に限定されており、複数の書籍を読むことによって起こる知識の結合に関しては語られていない。私は、結合の効率を高めるためには高速に読むことが有益だと考えていて、2014年の京大サマーデザインスクールでもそれについて書いた。「学び方のデザイン〜盲点を見つけよう」講義資料。書籍としては乱読のセレンディピティなどが似た考えを説明している。